なんだか難しいタイトルをつけてしまった。
先日、ひさびさに友人と飲みにいったときに、飲んだ勢いでふと、
「お前にとっての価値って何なの?」という問を投げられて答えられずにいた。
そして、ふとある本を読みながらそんなことを考えていた。
僕は、ブランディング・マーケティングを職業としていた。
ある「モノ(便益)」に対して、「"OnlyOne"で"NO1"」になれるための意味を見つけ、それを「キャッチーなコピー・シンボル」に変換して、「響く人」に効果的・効率的に同じことを訴え続ける。
それが仕事の一部であり、いってみれば「モノ」の価値の一側面を作っていた。と思っていた。
価値があるから存在する意味があるのか?
存在する意味があるから価値があるのか?
それとも、価値はわかりやすいシンボルに決めて叫べばできるものなのか?
そんなことを考えた時期もあったけれど、たぶん、全て正しいのだと思う。
ただ、「価値」というのは「人」を軸に、主に「人の役に立つか」で決められることというのが前提である。
だから、ブランディングにおいても、根本を辿れば最終的な「キャッチコピー」は「製品便益」から作られることになる。
「価値」というものは、そういう意味では、本来的にいえば「対個人」でしか存在し得ないのだが、それは多数決や他人の総意によって社会的な意味で言えば形成されていく。
だが、「社会的価値」は「人の役に立つ(=便益)」という意味としての多様性(=曖昧さ・脆さ)を保っては社会的にシンボルとして生きていられないから、本来の意味を忘れて、いつのまにか例えば、「金」「役職」「成功者」などというわかりやすいものに取って代わられていく。
「便益」を元にマーケティングキャンペーンを作ったのに、
いつの間にやら最後は、「今一番売れています」というキャッチコピーに変わるのと似ている。
そうやって、社会的価値に翻弄されている内に、「自分にとっての価値」はわからなくなる。
そして、人は他人の総意でつくられたシンボルを求めるようになる。
本当に「価値」を追い求めるならば、
『自分が「人の役に立つ」と思うこと』をまっすぐやることが、
そう言う意味で言えば理にかなっている。
それがわからなくて苦しいときは、
「自分は「価値」がないから大切じゃない」んじゃないか、
なんて思いつめないで、
「あなたがただ大切だ」
と伝えてくれる人がいればいい。
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