「後世への最大遺物」-内村鑑三 | 色塾BLOG-

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日々のビジネス・社会に対する思いや、起業に向けた考え、読書に対する感想など様々な話題を、海外で働くマーケターとしての第3者の視点から展開。

以前に聞いた言葉だったが、前出の「南洲翁遺訓」を通じて再会したこの言葉。
昨今考えていたことと非常にシンクロするものがあった。

内村鑑三とはキリスト教思想家で、日露戦争に非戦論を唱えた人物。
彼が明治27年、日清戦争の真っ只中に行った講演会の記録である。

「誰にも遺すことのできる遺物で、利益ばかりあって害のない遺物がある。
 この世の中は悲嘆の世の中でなくして、歓喜の世の中であるという考えを、
 われわれの障害に実行して、その生涯を世の中への贈物として、この世を
 去るということであります。・・・(中略)・・・
 本当の最大の遺物は何であるか、それは勇ましい高尚なる生涯である。」

私はこの言葉に共感した。

彼は講演会の中で、キリスト教徒として相応しくないがという断わりの下でこうもいっている。

後世に残したいものとして、
1.金
2.事業
3.思想・書物
4.教育

とあった。

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私は、「教育」がしたいと心の底から思っているし、中学からずっとそう思っている。
僕がそこでいっている「教育」とは「事業=(ビジネス)モデル」でもあり、「思想」でもあるかもしれない。

しかし、数ヶ月前に友達と飲んでいるとき、こういわれた。

「お前さぁ、教育とか偉そうなこといってるけど、何が教育なの?教えるもんなんかあるの?あほちゃう?」って。

そう言われて、「その通り、俺は阿呆」だと思った。
「何を教えるのか、何を育むのかわかっていない」のに教育とはなんだと。

それから、じっくり考えた。

俺はそうしたいと感じていることには違いないが、全く意味がわからないということも同時に違いない。俺は一体何がしたいのだと思った。

結論として、今のところピンと来ているのは、まさに彼の言葉が代弁する通りだ。

「種々の不都合、種々の反対に打ち勝つことが、われわれの大事業ではないかと思う。それゆえに、ヤコブのように、われわれの出逢う困難について、われわれは感謝すべきではないかと思います。・・・またふたたびどこかでお目にかかるときまでには、少なくともいくばくの遺物を蓄えておきたい。この一年のあとに我々が再び会しますときには、われわれが何か遺してあって、今年は後世のためにこれだけの金を溜めたというのも結構、事業をなしたというのも結構、また私の思想を雑誌の一論文に遺したというのも結構、しかしそれよりもいっそう良いのは後世のために私は弱いものを助けてやった、私はこれだけの困難に打ち勝ってみせた、これだけの品性の修練をしてみた、これだけの義侠心を実行してみた、これだけの情実に勝ってみたという話をもってふたたびここに集まりたいと考えます。この心掛けをもって我々が毎年毎日進みましたならば、我々の生涯はけっして五十年や六十年の生涯にはあらずして、実に水の辺に植えたる樹のようなもので、だんだんと芽を萌き枝を生じてゆくものであると思います。けっして竹に木を接ぎ、木に竹を接ぐような少しも成長しない価値のない生涯ではないと思います。こういう生涯を送らんことは実に私の最大希望でございまして・・・もしわれわれが正義はついに勝つものにして不義はついに負けるものであるということを世間に発表するものであるならば、そのとおりにわれわれは実行しなければならない。われわれは後世に遺すものはなにもなくとも、われわれは後世の人にこれぞと覚えられるべきものはなにもなくとも、アノ人はこの世の中に活きているあいだは真面目なる生涯を送った人であるといわれるだけのことを後世の人に遺したいと思います。」

私なりに解釈するならば、
「生き様」を遺すということかもしれない。

苦難でもなんでもかかってくればいい。
轍が残るくらいに徹底的に瞬間瞬間を、気合入れて生きてやる。

今は素直にそう思う。



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