1年ぶりのブログ~2015年へ | 色塾BLOG-

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日々のビジネス・社会に対する思いや、起業に向けた考え、読書に対する感想など様々な話題を、海外で働くマーケターとしての第3者の視点から展開。

【2015年に向けて】



ブログを書くという習慣ももうなくなり、日々の自分について書き残すことなんてあんまり意味がないっていうか、そんなことよりも今を必死で生きることに精一杯すぎて、省みる余裕なんかないっていうのが正直なところかもしれない。

だから、何を書けばいいのか全然わからないけど、でも節目の記録だけは自分の姿を残しておいた方がいいという思いと、書くことによる自分との対話を通じた自分探しと自己表現を年に1,2度くらいしてみるのもいいじゃないかと思って、今目をつぶってみると止めどなく溢れてくるココロの叫びを書き残すことにする。

2014年も終了。

一年という時間が経ったわけだけど、時間ってなんなんだろうって。それを考えるのが今年のいろんなテーマの1つだったかもしれない。アインシュタインの相対性理論とか難しくて意味不明な本とか一生懸命、まるで英語の分厚い本を学生の時に辞書を調べながら読んだようにうんうん唸りながら学んで、時空間の形成から、宇宙創成から、神話を学んでみたり、物理なんかに興味がいったり、DNAについても本を読み漁り、なんかすごく範囲を広げた年だったなと思う。

それで分かったことはなに?って聞かれても、正直俺のちっぽけな脳みそではわからないし、うまく説明できない。

ただ、たぶん「生かされていること自体、ゲームだな」っていう感覚は深くなった。時間とか空間とかこの目の前にあるモノでさえ、すごくバーチャルっていうか掴みどころのない存在で、なんかリアリティを持てなくなってきている。

時間感覚が極端に短くなっている中で、おじいちゃんになって死を迎えることなんて、本当にすぐ先のことだし、別に明日大地震や大豪雨が来て死んじゃうことだって、富士山が噴火して灰に埋もれることだって、体に良くない食事の蓄積や放射能で癌になってしまったり、戦争が起こってミサイルで東京が壊滅する可能性だってあるだろうし、エボラ熱みたいな伝染病感染っていうのも十分にある。

死ぬことは怖くないっていうか、死ぬことは目前というか、死ぬことと生きることは表裏一体というか、なんといったとしてもうまく表現できている自信はないけど、そんなことを怖がるくらいなら、今の自分の魂を磨くことだけに集中をしたい。

そんな魂を磨くなんていっても、自分はホントできないことばかりだし、別に取り柄がある訳でもないんだけど、「世界をよく変えていきたい!」という情熱だけは持っているのが好きなところだと思う。

だから、一刻も早く本当にプライドとか守りとか一切全て消したいという焦燥感には駆られている。

そして、ただただ行動を爆発させたい。本当に世界をより良い場所に変えていくために、自分自身が早く早く変わらなくちゃいけないという危機感だけは日々募り、悔しいがまだ1%も発火できていない感覚がある。

これが僕の今の一番の課題なんだろうって思う。ホント、かっこつけっていうか。ださいと思う。
だから、本当にもっともっと速く、時間を超えるスピードで物事を進ませたいのに、遅い。

まあ、そんなことは百も承知の上で、カッコツケな部分を持つことで、だからこそなんとか自律できてる部分もあって、それはそれでいいなんて割切る気は毛頭ないけど、まあ早いところ潜在能力を100000%といわず∞に発揮し、驚異的なスピード感で動きたい。

本当に速く動かなければ「俺は結局口だけで世界を変えられない人物だった」という事実が確定してしまうから、それだけは避けたい。俺が動かなかったことで達成不可能になることだけは全力で阻止したい。

そのうえで、あとは流れに任せるしかない。

あと、「世界を変えたい」という思いを実現する形として教育こそが大事だと思い、若かりし頃から夢見ていた「教師」という道を現実化していくという積年の思いをかなえるために、今年は教職免許を取得するために通信大学に通い始めた。仕事もある中でレポートを書く時間を捻出するのは厳しいものがあったが、まあなんとかやっている。

教育というものがどういった理念で作られ、国語、算数、理科、社会といったものがどういう目的と考えに基づいて研究され、自分に授けられたか、あるいは人間のココロや感情の成長過程や親子関係のありかたなど、様々な観点で学びを得られる機会であったことに非常に感謝をしている。

同時に、義務教育としての国家教育の重要性はひしひしと感じるうえで、自分とのフィットネスを考えると、義務教育教員としての人生が自分の生きる道・時間の投資先ではないかもしれないという感覚も芽生えてきた。教育は、農作業と同じで、相手の環境を整え、子供の成長を共に歩みながら待ち、長い時間をかけて育むものであることは、自身の子供と接していても感じる。自分の周りにご縁で出会うだろう生徒たちに愛情を注ぎ続ける情熱と本当にスピードを持って事業を伴った形で世の中を変えていくんだ!という思いを実現可能性と自分とのフィットネスという天秤にかけて比較すると、僕自身は非常にせっかちな性格であるし、性質的に教員の道を突き進むのは一番ではないかもしれないと思った部分もある。

しかし、同時に考えたことは、世界を変えうる人物を多く輩出した吉田松陰先生をはじめとする人物が多く兵法を学んでいたことに関しては、非常に的を得ているということだ。まさに今年ご縁があったソフトバンクアカデミアのメイン講義のベースが孫子の兵法であることは理に適っている。これだけスピード速く物事が変化する中で、その変化を捉え、戦略を考え、ダイナミックに世の中の方向性や流れを変える術としての戦略教育は日本という国に於いて最重要な教育科目なのではないかとも思い始めている。戦略教育の中で、重視されるべき本質のひとつは「人と違うこと」だ。

サの時代からワの時代に移り変わっていく中で、「調和」こそが行きつく先だと思う一方で、「違い」こそが進化を生むという事実には抗えない。今という超短期的な時間スパンで奨励されるべきは「人と違うこと」が大事にされる教育と文化形成であり、それを推し進めながらも、同時に「調和」が大事であるという二元論では示せないけれども目的を見据えた進化の方向性およびそれに向かう教育を目指したい。

変人が変人のままで胸張って生きていける日本ができたら素晴らしいと思う。
少なくとも変人やヒトの変人的な部分が破壊される文化では今後の未来は暗いと思う。

話が少しそれたけれど、やはり世の中を変えるという「実践」とそういった人間を育てるといったうえでの「戦略教育」といったものは自分が求めていくべき方向性なのではないかと思う。

あとは、意思決定というか、腹決め力について。
やっぱり経営を自分でやってみて、一番の学びはココ。結局のところ、腹決めができていないものというのはほぼうまくいかないといっても過言ではないのではないだろうか。端的で現実的な言い方をすれば、腹決めは、自分の時間とお金を投資すること。加えて、志を定めること。そして、やり抜く覚悟を決めること。本当に「言うは易く行うは難し」の最たるものだと思う。

「意思決定」とはオプションの選択ではない。どちらかというと表現として近いのは、腹を括って退路を断っていくことに非常に近い。「やり続ける意志を持てるだけの志」と「腹を括って退路を断って実践できる覚悟」。っていっても、僕の場合はそんなにココロが強くないから、真っ直ぐ突き進めなくなることも多々ある。それでもやり切る覚悟を少なくともスタート地点に於いて持ってるよね?という腹決めができていないことによる失敗は人生において何度もしてきたし、逆に言えば本当に腹決めしたことは「思考は現実化する」ということで最終的には結果として現実化してきた。

僕が志を実現する方法としてやはりもっとも根本的なものは「腹決め力」であると思うし、本当にこの精神を鍛えていかねばならんと思うわけだ。

最終的には、やっぱり「世の中を変え、世の中を変え続ける人材を創る」という僕自身の志としての言葉だけは僕が生きたことの真実として残したい。リアリティがあるとしたら、そういう世の中を変えたいという欲にのみ存在しているかもしれない。

あと、ふと思うのは、自分は周りをどれだけ幸せにしているだろうか?ということ。
別に周りを幸せに積極的にしたいんだという高尚な思いがある訳ではないんだけれども、少なくとも自分の周りの人は幸せであってほしいと思う。

幸せっていうのはなんだろうとか思うけど、やっぱり「自由」が大事なのかなという思いに至る年だった。

本当に自分も含めみんないろんなものに束縛されて、それって時空間的および精神的に境界があるってことなんだと思うんだけど、そういう境界はすべてぶっ壊していきたい。それが幸せの原点だと思う。

そして、自由はタダで手に入るのではなく、やはり「腹決め」と「行動」と「戦略」が伴って得られるものであることを心に留めておきたい。

最近は本当に正直に意見をいう様になった。
周りのプライドとかあまり気にせず、グサグサと思ったことを思ったままいう。

結局、何かに困っていたり、人に思いが伝わっていなかったり、プランが結果につながっていない場合、それは自分も含めだけど、「自分の人生を主人公で生きていない」っていうことに起因するんじゃないかなって思う。それはすなわち「腹決め」と「行動」ができていない人生を歩んでいるということ。そこさえあれば基本的にはなんとかなるもんだなあという風に思い始めた。

「戦略」の誤りは、鍛えていったり、人の話をよく聞いて正していけばいいけれど、「腹決め」と「行動」ができていない場合は、それを引き出すようにまっすぐに人に誠実にあたっていくしかない。

無責任かもしれないし、すべての人間の人生は背負えないけど、「どうせ生かされているだけなんだから、お前の人生はお前らしく生きてくれよ。」って思う。誠実に伝えればそこから何らかの反応が生まれる。変化がうまれる。変化はチャンスだと思う。

なにをオブラートに包み隠す必要があろうか。
正直に誠実に生きていればそれでいい。
それが自由であり、幸せだ。

だから、自分らしい生き方、それは時間にも空間にも周りにも縛られない生き方。
これを実現していける世の中というのは、自己の幸福追求のために富を蓄えることに飽きた次世代の課題だと思う。

あと、唐突だけど、今は僕はココロイロという会社をやっているけど、理念はこれに決めた。
“No fliction, No border, Just circulate it.”

なんかうまくキマってないんだけど、でも僕がやりたいことはそういうことなんだと。

世の中さ、いろんなものが形になって、輪郭・境界をもって停滞しすぎなんだよ。
それは非常に重要なことなんだけど、行き過ぎると不要な摩擦が起こる。

所有とか、プライドとか、そういうものって滞っているから宿っちゃうんであって、そういうのが宿っちゃうとそこから抜けられないばかりか、なんか競争とかしちゃって自分を苦しめるだけなんだよね。本当に競争してきて痛いほどそのアホらしさを味わった。そして、それは自分らの生き方としてアホなだけじゃなくて、我々の産みの親である地球であったり宇宙環境であったり、そういうものさえ破壊しようとしている。

滞った生き方は、あなたを幸せにしてくれません。と言いたい。
蓄積という戦略は、振り子が行き過ぎていて自滅の道を歩んでいるよ、確実に。

だから、振り子の振動を逆戻しして、原点に戻りたい。
根本は、全て循環なんだよ。きっと。

それが達成されていれば、摩擦もないし、境界もないし、争いなんてもちろんないし、自分と他人でさえ不明瞭になると思う。死ぬことと生きることの境目でさえなくなるし、別に僕らは宇宙のたったほんの一部であって、人間の細胞の中にもミトコンドリアとかいう別生物がうじゃうじゃいきているように、すべては相似形のマトリョーシカみたいな構造の中で、ただ存在しているだけ。そして、そういう環境を循環の中でより良いものに進化させていくことが僕たちがやらなければいけないことであり、使命なんじゃないかなと思う。

その中でも、現時点どう生きるかという切実な現実にはまさに死ぬ気で一所懸命な努力しながら対処していかないといけないし、辛いことなんて死ぬほどある。それもたぶんみんな平等にある。だから、それらはもう試練なんだkら、気合いで跳ね飛ばせばいい。そして、それからだ。理想論だけ語るようなヤツではいたくないんだけど、とにかくあらゆる先にあるのはすべてが循環する社会なのだと。

水のようにしなやかで強く
火のように激しくエネルギーを放出させ、
風のように速く静かに、
土のようにすべてを包み込み、産み、育み、ケアする

そんな存在でありたい。

ということで、友人と約束をした、30代までに循環型社会をつくる、40代までにあらゆるボーダーをなくすという超感覚的で不明確かもしれないけど、確実に成し遂げたいと思う目標のために、来年も日々猛スピードで駆け抜けたいと思う。

とにかく速く!速く!

そのために、あらゆるプライドとか自分の中に滞る原因となるものを徹底的に排除して、そのエネルギーをすべてのひとつひとつの行動と循環というアウトプットに変えていく。

諸行無常。

2015年の課題をここに明らかにし、来年の今頃にはもっともっと進化した自分に出会えるよう命懸けで毎日を生きることとします。

以上。

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2014年は総括するならば、世の中の「理」を学び始めた年でした。

様々な先生と書籍に訊ね、朱子学、禅、宗教の根本原理、言葉の原理、宇宙原理、心理学、教育学等、様々な自然法則としての原理原則を学び始めた年でした。

「体は私である。心は公である。
 私(体)を犠牲にして公(心)の為に死ぬ者を君子とする。
 公(心)を犠牲にして私(体)の為に死ぬ者を小人とする。」

これは松陰先生の七生説にでてくる言葉でありますが、その考えの元を辿ると朱子学理気二元論(理(原理)に沿って気(物質の元となるもの)を現象化させるという考え方)に基づいているようです。この説が正しいかどうかは知りえないことではありますが、理に適っているとは思います。一言でいうなれば物事の原理を知り「格物到知への旅路」に一歩踏みだそうとした年であったと思います。

理(ことわり)を知り、原理原則に沿った情念と行動を起こし、現象を起こす。

このことの重要性を深く心に刻む時間でありました。

そして、「大学」の八条目によれば、「格物、到知、誠意、正心、修身、斉家、治国、平天下」となっていくわけですが、理を知れば知るほどに自分自身の「誠意、正心、修身」の至らなさに気づく時間でもありました。

来年は、「格物到知」をより一層極めつつ、「正心誠意・修身斉家」にも一歩踏み出せる年にしたいと思います。

「正心誠意」…私利・私欲を離れて、正直に熱心に事にあたる心。心を正しく保つには、自分をいつわらず誠実に対処すべきであるということ。

「修身斉家」…自分の行いを修め正して、家庭をととのえ治めること。

一生懸命は生きてきたとはいえますが、正心誠意生きてきたかといわれれば、「そうだ」と言い切る自信はありません。

結果に拘り、自分を大きく誤魔化したり、いいくるめたり、いいくるめられたり、時には戦略・策略の中でズルのようなこともあっただろうし、常に誠実であり続けられたかといえばそうではないと思います。

それは自分の「氣の弱さ」と人間としての「成熟の甘さ」のためでもありました。

常に正心誠意であることは、私にとっては非常に勇気がいることであるかもしれませんが、それでも平旦の氣を養いつつ、愚直に己にチャレンジしていきたいと思います。

2015年は嘘偽りのない正心誠意の生き方へと進化する年にし、
常に奢らず遜らず謙虚でありたいと思います。

ココロイロも飛躍の年になります。

己をより一層正し、多くの同志とお客様を幸せにできる一年にしたいと思います。

皆様方にとっても、実り多き年になることを祈念し、支えてくださる仲間に感謝しつつ、2015年を踏み出すことにします。